「学問のすすめ」で知られる福沢諭吉には、もう一つの顔があった――それは「剣術の達人」としての姿。文武両道を地で行くその人生には、幕末・明治を生き抜いた強さと信念が詰まっていた。本記事では、福沢の剣術歴から居合の修行、勝海舟との確執、そして暗殺未遂事件に至るまで、意外な一面をひも解く。
福沢諭吉の知られざる一面|剣術の達人としての素顔

福沢諭吉 剣術の腕前とは?
福沢諭吉といえば「学問のすすめ」に象徴される啓蒙思想家として知られているが、実は剣術の達人という側面も持っていた。彼が修めた流派は立身新流(りっしんしんりゅう)居合術。これは江戸時代後期に確立された、実戦向きの抜刀術に特化した流派で、敵の動きに応じた柔軟な対応が特徴だ。
この流派において、福沢は若くして頭角を現し、最終的には免許皆伝の腕前に達したとされる。しかも、剣術を単なる武芸としてではなく、”自らを律する修行の道”として捉えていた点が、彼の思想と深く結びついている。
福沢諭吉 剣豪だった?本当に強かったのか?
実際に戦場で剣を振るった記録はないものの、幕末の動乱期に暗殺未遂に何度も遭遇しているという事実から、護身術としての実戦性は高かったと見られている。
『福翁自伝』によれば、諭吉は敵対者に狙われるたび、剣を抜かずに逃げることこそ真の護身であると記している。しかしこれは剣術に自信がなかったからではない。むしろ、いざというときにはいつでも応戦できるだけの鍛錬を積んでいたからこそ、無闇に戦うことを避けられたのである。
また、彼の剣術に対する真摯な姿勢は、他流試合や見せ物としての剣術を一切拒否していたことからも窺える。本物の武芸者は、むやみに力を誇示しないという信念に貫かれていた。
福沢諭吉 福翁自伝に記された剣術修行
『福翁自伝』には、諭吉が日課として剣術の稽古を続けたことが繰り返し記されている。中でも印象的なのは、
「晩年には居合抜きを一日千本やっていた」
という記述である。これは剣術の熟練者であっても過酷な稽古量であり、福沢が年老いてなお修行を欠かさなかったことを物語る。
彼にとって剣術は単なる護身術やスポーツではなく、精神と肉体の鍛錬を通して自己を律する学問の一部だった。
居合の達人としての日課と健康法
福沢諭吉 居合道との出会い
福沢が立身新流居合術と出会ったのは、中津藩時代にまでさかのぼる。幼いころに父を亡くした彼は、学問と同時に武道にも親しんでいた。立身新流は中津藩内でも有名な流派で、実戦に即した形(かた)を重視する合理的な剣術であった。
緒方洪庵の適塾に入門するため大坂へ出た後も、時間を見つけては武道修行を続けていたという記録が残っている。特に居合術は、日常生活の中に取り入れやすく、独学・独鍛にも向いていたことから、彼にとって最適の修行法であった。
福沢諭吉 健康法 居合で毎日1000本抜刀
晩年の福沢は、自らの健康法として居合術の稽古を日課にしていた。『医者のみた福澤諭吉』(土屋雅春著)では、
「一日千本以上の抜刀を行い、それを日記に記録していた」
と紹介されている。つまり福沢は、剣を抜くという単純動作の中にこそ、精神統一と健康維持の鍵があると考えていたのである。
また、これによって心肺機能や下半身の強化にも効果があったとされ、実際に福沢は晩年まで非常に健脚だった。
立身新流 居合とは何か?
立身新流(りっしんしんりゅう)居合術は、江戸中期から後期にかけて成立した実戦剣法の一派である。
この流派の特徴は、
- 抜刀から納刀までの一連の動作に無駄がなく合理的
- 相手の先手を制する「先の先」の理合を重視
- 実戦形式の形(かた)を反復することで瞬発力を鍛える
といった点にある。
つまり、立身新流は「居合=静から動への移行」に注目した、究極の実戦剣術とも言える。
福沢諭吉がこの流派を選んだこと自体、彼の剣術に対する本気度を物語っている。そしてこの姿勢は、彼の思想にも共通する“合理性と独立自尊の精神”に通じるのである。
文武両道を体現した福沢諭吉
福沢諭吉 文武両道の精神とは?
「天は人の上に人を造らず」の名言で知られる福沢諭吉は、近代日本の思想家・啓蒙家として広く知られていますが、実は文武両道を体現した稀有な人物でもありました。福沢は幼少期から剣術に励み、後年は居合道の達人として知られるほどの腕前を持っていました。学問によって日本を変えようとした彼の思想の根底には、「知」と「力」の両輪が必要という信念があったのです。
福沢諭吉 武士の素養と教養の両立
武士の素養としての剣術を徹底して身につけながら、同時に蘭学、英学といった西洋の知識を学び続けた福沢諭吉。江戸幕末という動乱の時代において、剣術の修練は彼にとって「生き抜くための術」であり、学問は「社会を変える武器」でした。彼のように教養と武道の両立を成し遂げた人物は当時としても異例であり、その生き方はまさに文武両道の模範といえるでしょう。
福沢諭吉 武道の修練と学問の関係
諭吉は単に体を鍛えるために武道を修めたのではありません。剣術や居合の修練を通して「心を鍛えること」こそが、真の学問への道であると考えていました。学問とは自己を律する精神力と冷静な判断力を育むもの。これらはまさに武道で培われる素養です。学びと武道の融合こそ、諭吉が生涯追求した理念であり、それが慶應義塾という教育機関にも反映されているのです。
波乱に満ちた人生|剣と知恵で生きた男
福沢諭吉 暗殺未遂事件と護身術
幕末から明治初期にかけて、開国論者として活動していた福沢諭吉は、何度も暗殺の標的となりました。とくに保守的な攘夷派からは命を狙われる存在であり、深夜に不審者が襲来したこともあったと言われています。そんな危機的状況の中で、彼が日々修練していた護身術としての居合術が身を守る一助となったと考えられています。
福沢諭吉 波乱の人生を象徴するエピソード
慶應義塾創設者という華やかな肩書きの裏で、諭吉の人生はまさに波乱に満ちたものでした。蘭学塾時代の極貧生活、アメリカ渡航による衝撃、明治政府との確執、大隈重信や勝海舟との対立、そして新聞「時事新報」での言論戦。こうした困難を乗り越えながらも、剣と知恵を武器に日本の近代化に貢献した諭吉の姿には、今なお多くの人々が魅了されています。
幕末 居合の達人として恐れられた背景
福沢諭吉が修めたのは立身新流(りっしんしんりゅう)という居合の流派。この流派は実戦向きの居合術として知られ、諭吉も若い頃に免許皆伝を受けた実力者でした。晩年になっても一日千本を抜刀する稽古を日課とし、その姿は周囲から「居合の達人」「幕末の剣豪」として一目置かれていた存在でした。剣に生き、知に殉じた福沢諭吉の生き様は、まさに武士の魂そのものでした。
勝海舟との確執|剣を超えた信念の衝突
福沢諭吉と勝海舟の思想対立とは?
福沢諭吉と勝海舟。ともに幕末の激動を生き抜いた知の巨人であり、いずれも開明的な人物として知られていますが、両者の関係は決して良好とはいえませんでした。とくに明治維新後、旧幕臣でありながら新政府に仕えた勝海舟の姿勢に、福沢は強い反発を示します。
諭吉は「忠義とは私的な主従関係ではなく、公の理念に基づくべきものだ」と考えており、「時流に乗って立身する者」に対しては徹底的な批判を辞しませんでした。一方で、勝は「現実主義」を貫き、徳川幕府の無血開城などで手腕を発揮。二人は開国論者でありながら、その行動原理が真逆だったのです。
この対立は、やがて『瘠我慢の説』という公開書簡として結実します。
『瘠我慢の説』に見る福沢の覚悟
明治時代に福沢諭吉が発表した**『瘠我慢の説(やせがまんのせつ)』**は、勝海舟や榎本武揚といった旧幕臣たちが新政府の要職に就くことを痛烈に批判した論考です。これは単なる政治的な意見表明ではなく、**武士の「誇り」と「矜持」**を論じた一大声明でした。
福沢は文中で、「忠臣は主の亡き後に官途につかず」「痩我慢こそ真の忠誠」と述べ、名誉を重んじる旧来の武士道を再解釈します。この文には、学問・思想・剣術すべてを貫いた諭吉の信念の強さと潔さがにじみ出ています。
剣で斬るのではなく、言論で真実を斬る。福沢諭吉のこの覚悟は、まさに言論の剣士といえる生き様を体現していたのです。
まとめ|福沢諭吉の剣術から学ぶ現代の教訓
剣術は殺人術ではなく「生きるための学問」だった
福沢諭吉にとって**剣術とは「生きるための学問」**でした。決して他者を斬るための武技ではなく、自らの心身を律し、逆境を生き抜くための手段だったのです。幕末の混乱期に暗殺未遂や思想弾圧を何度も経験した諭吉にとって、剣術はまさに「命を守る学問」だったと言えるでしょう。
独立自尊の精神とともに鍛えた、剣と学問の融合
「独立自尊」——この言葉は福沢の生涯を貫いた理念であり、同時にその剣術修行の在り方とも深く結びついています。彼は、学問と剣術の二つを融合することで、精神と肉体の両方を鍛えました。そのバランス感覚こそ、現代人にも通じる自己修養の手本となります。
学問で己を高め、武道で己を制す。この相反するように見える二つの道を、諭吉は見事に融合させていました。
福沢が体現した「現代人にこそ必要な武士道精神」
現代は「知」の時代と言われながらも、SNSや情報の洪水に溺れ、自分の軸を見失いやすい時代でもあります。そんな今だからこそ、福沢諭吉が体現した「武士道精神」——すなわち、節を守り、己を律する覚悟が必要なのではないでしょうか。
福沢の剣術は、「武道=命のやりとり」ではなく、「武道=人格の鍛錬」でした。彼の教えや生き方から学べることは、今なお色褪せることはありません。